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BIOTOP PEOPLE

No.47 NAOTSUGU YOSHIDA

NAOTSUGU YOSHIDA
BIOTOP PEOPLE No.47 NAOTSUGU YOSHIDA CERAMIC ARTIST
今年2月にBIOTOP白金台にて個展を開催し、好評を博した陶芸家・吉田直嗣さん。 美しい曲線を持った繊細なフォルム、薄くて上品な口縁、 深い色合いの黒と、温もりあるなめらかな白が特徴の器は 料理やファッションのプロたちにもファンが多い。 ミニマルながら存在感のある器が生まれるまでのストーリーをお聞きした。

迫村 だいぶ前ですが、Hiromiyoshii Galleryに何人かの陶芸家さんの合同展示会を見に行って、そこで初めて吉田さんの器を拝見したんです。とてもいいなあと思い、個人的にいくつか購入させていただきました。その後連絡してBIOTOPに作品を納品していただいたのが8〜9年前。 あの頃と今を比べるといかがですか?

吉田 今と比べたらあの頃はぜんぜん忙しくなくて、もっと忙しくなりたいといろいろ模索していた時期ですね。

迫村 今日は吉田さんの陶芸が生まれるまでのお話をうかがいたいのですが、吉田さんは陶芸家の黒田泰蔵さんのお弟子さんになる前は学生だったんですか?

吉田 大学を卒業したあと、3〜4ヵ月だけ陶芸教室の先生をやっていました。

迫村 美大出身でいらっしゃいますよね? ずっと陶芸家を目指していたんですか?

吉田 高校2年くらいで、そろそろ真面目に進路を考えなきゃという時に、どう考えても自分がサラリーマンになることが想像できなくて。真面目な両親に反発したかったのかもしれないですね。

迫村 僕も同世代だからわかりますが、あの頃は会社に就職するのが普通という価値観が強い時代でしたよね。よく美大に行くことを許してくれましたね。

吉田 父は高校の音楽の教師でした。音楽をやりたくて音大に入ったけれど、早い段階で音楽では食べていけないことに気づき、教員にシフトしたようです。すごく真面目だったので、その姿を見て自分はこうはなれないとずっと思っていました。でも父は厳しくはありましたが、子どもに対して何かを強制するような人ではなかったんです。5歳上の兄は超自由人で、個人でアパレルブランドを運営していて楽しそうでした。それを見て自分も何かクリエイティブな仕事につきたいなと思っていました。もともと絵を描くのが好きだったし、漠然と物をつくる仕事に興味がありました。高校生の頃、アメリカンカルチャーがはやっていたのですが、その流れでイームズの椅子に興味を持ち、倉俣史朗さんの作品を見て、かっこいい!これじゃん!と家具を作りたくなって美大のデザイン科に進んだんです。

美大の陶芸サークルで陶芸の面白さに開眼したという吉田さん。「ほとんど部室にいて、出席取るときだけ教室に行くような生活でした」

迫村 なんと、最初は家具デザイナーを目指していたんですね!

吉田 ところが、大学に入ってすぐに自分がやりたいのは家具デザインではなく家具製作だったということに気づいたんです(笑)。自分はデザインには向いていない、図面を描きたいわけではなく、木を削りたいんだと。

迫村 そこに気づいた決定的な理由は何だったんですか?

吉田 考えたことを図面に落とし込むという作業にときめかなかったんですね。それよりもモックアップを作っているほうが楽しい。でも量産するものは向いていない……と悩んでいるときに、初めてのひとり暮らしだったこともあり食器がなくて探しに行ったんです。実家から持ってきた食器ではなく、せっかくのひとり暮らしにふさわしい食器がほしかった。でも何を見ても1ミリも心が動かず、結局プレーンな無印良品の食器を買って帰りました。

迫村 わかります! 僕は大学で寮生活だったので、それほど物を買わずにすんだのですが、カップなどは自分で用意しなくてはならず、みんなが無印良品を買ってきてどれが誰のだかわからなくなったという(笑)。当時は作家の器を買うというような発想はなかったですよね。

吉田 欲しい食器はどこに売っているんだろう……と思っていた矢先、たまたま友達に連れられて大学の陶芸サークルを見学に行くことになったんです。そこで少し体験させてもらったら、めちゃくちゃ面白いんですよ。でも最初は粘土を練ることすらできず、3カ月くらいひたすら粘土を練っていました。それから手びねりというろくろを使わない陶芸をやってみたのですがうまくいかず、さらにろくろを回したらもっとうまくいかず、それでも楽しくてハマって、大学2年の途中にはすでに陶芸家になりたいと思っていました。

10年くらい前に吉井画廊で初めて吉田さんの器を見て、すぐにいくつか購入したという迫村。「吉田さんの個展は、男性客が多く買っていくのも特徴。僕の周りの男性たちも吉田さんのファンが多い」

迫村 そこまでどっぷりハマれるってすごいことですよね。陶芸家を志すにあたり、生活していくことについての不安はなかったですか?

吉田 それが不思議なくらいなかったんですよ。ただ陶芸をやりたいという思いだけ。大学の先生に頼んで陶芸関係の方や工房を紹介してもらったりしました。なかでも相模湖の近くにある青木亮さんという陶芸家のアトリエをよく訪ねていて、青木さんにもどうやったら陶芸家になれるか相談したのですが、あたりまえですがやめといたほうがいいとアドバイスされました(笑)。悩んでいるうちに卒業が近づいてきて、あわてて新聞の求人広告で伊豆高原にある陶芸教室の弟子募集というのを見つけ、急いで連絡してとりあえずそこで働き始めました。観光客に陶芸を教えるという仕事なのですが、嘘みたいに忙しく給料も安かった。休みの日に青木さんの個展に行ってそう報告したら、何をやっているんだ、そんなところにいて陶芸家になれるわけがないだろうと怒られ、伊豆高原在住の陶芸家の村木雄児さんを紹介してくれました。その村木さんが黒田泰蔵さんが弟子を探していると教えてくださったんです。

迫村 吉田さんはもちろん黒田泰蔵さんをご存じだったんですよね?

吉田 僕は人の名前とか顔を覚えるのが苦手で……。だから「黒田って誰だろう……」と思いながら面接に行ったんです。りっぱなお宅の暗い部屋で、逆光を背負った怖そうなおじさんに、いきなり「いつから来れる?」と聞かれてすぐに働くことになったのですが、2日目くらいに倉庫の整理をしていたら棚の端に雑誌が積んであって、それを見て初めて「なんか見たことがある……、この人は学生の頃にめちゃくちゃ憧れていた人だ!」と黒田泰蔵さんであることに気づいたんです(笑)。

迫村 マンガみたいな話ですね(笑)。黒田さんは厳しかったですか?

吉田 最初の半年間は怒られない日がなかったですね。毎日歩き方からドアの開け方など、とにかく一挙手一投足怒られていました。そこで鍛えられた気がします。それでも怒られていないときはすごく楽しかったので、めげることもなく仕事をしていて、半年くらいたったときに、突然「もうわかった」と言われ、それからぴたりと怒られなくなりました。もう怒り飽きたのかもしれませんね。

今回はマグカップや脚付きの皿など、今までにない新しい作品が多く並んだ。「BIOTOPの空間をイメージしたら、新しいものができました」

迫村 弟子の間に、陶芸の技術などを教えていただくことはできたんですか?

吉田 器を作ることに関して、技術的指導は一度もなかったです。僕もそうなのですが、黒田さんも自分の作品以外には興味がなくて、それは弟子の作品も例外ではない。焼きあがったものを仕事場に置いてあるだけでも怒られるので、ひっそり作って、こっそり焼いて、とっとと家に持って帰っていました。独立してからもその姿勢は変わらず、作品を見て「いいじゃん」とは言ってくれるのですが、それは「食べていけるようになっていいじゃん」という意味だと僕は受け止めていました。でも作っているのを見るのは自由だったので、黒田さんがろくろを回している真正面に座って見ていましたね。時折、口を開けたまま見るなと注意されました(笑)

迫村 吉田さんが黒田さんから一番学んだことって何だったんでしょうか?

吉田 トップランナーがどういう心持ちで物づくりをしているのか。その世界を間近で見せてもらえたことですね。淡々と作るときも苦しみながら作るときもあると思いますが、コンディションに左右されずプロはどうやって作品を作り続けるのか。その制作の現場は、見ていてとてもエキサイティングでした。

迫村 吉田さんの現在の作風は、やはり黒田さんに影響を受けている部分が大きいのですか?

吉田 ひとりの作家の器を約3年間、四六時中触り続けるってけっこうすごいことだったんだなと、あとになってわかりました。重さのバランスとか大きさの感覚とか、頭で考えるより先に自分の手が覚えているんです。独立して最初はそれがすごく嫌だったんですが、でもそこに抗うと嘘っぽくなってしまうと思い、それを受け入れるようになってからは気持ちがラクになりました。

「できるだけ長く陶芸家として活動を続けたいので、できるだけストレスがなく、自分が本当にやりたいことだけができる環境にしたいですね」

迫村 独立して最初はどのように生計を立てていたんですか?

吉田 どうやっていたか記憶にないくらい、お金がなかったですね。たまたま妻の祖母が持っていた別荘が空いていたので、そこに引っ越して自分で窯をつくり、器が焼けると車に積んで東京に売りに行っていました。白い器だと師匠に似すぎてしまうと思い、最初は黒い器ばかり作っていましたね。でも当時は「粉引(こびき)」という器の全盛期で、みんな白い器しか作っていなかったので、黒い器の僕は、よく白黒展みたいな企画で声がかかりました。でも売れていくのは白い器ばかり。まったく収入は安定しなかったです。

迫村 いつから白い器や、白黒2色の器を作り始めたんでしょうか?

吉田 独立して最初の5年間は黒い器しか作っていなかったのですが、少しずつ自分にかけていた縛りみたいなものを解除していきました。あるときテテリアの大西進さんと知り合って一緒にイベントをやることになったのですが、さすがに黒い器に紅茶をいれてもおいしそうに見えなくて、それでティーカップだけ白を作ることにしたんです。そうしたらやっぱり磁器はいいなあと思い出しました。それから白い器も作るようになり、その後の5年は白と黒を半々ずつくらい、そして独立して10年くらい経った頃から、白黒2色の器も作り始めました。5年刻みで変化がありましたね。

迫村 BIOTOPもそうですが、吉田さんの器はファッション感度の高いショップなどに置かれているイメージがあります。それは意識的にそういった取り扱い先を選んでいるんですか?

吉田 当時は雑貨ブームだったから暮らし系の雑貨店とか、伝統工芸ギャラリーが多かったのですが、でもそういうお店が自分にはあまりしっくり来なかったんです。それでいろいろと働きかけているうちに恵比寿のレクトホールに置けることになり、そこで初めて器が洋服と並びました。今はたくさんありますが、その頃はレクトホールのように家具も洋服も器も置いてある店はあまりなかったと思います。その経験から自分のアプローチが変わって、買ってくださるお客様にも変化があり、いろいろ楽しくなったんです。

初めて制作したというマグカップ。マットな黒で脚がついているところが無国籍な佇まい。

迫村 最初にオファーさせていただいた頃もBIOTOPでは器を扱っていましたが、ほぼ海外の作家がメインで、日本の作家の器を置きたいと思って探していたんです。とにかくモダンで、作品からファッションやアート性を感じさせるような作家さんがいいなと。だから吉田さんの器を見たとき、ぴったりだと思いました。今回、久しぶりにまた器を作っていただきたいなと思ったのですが、吉田さんはおそらく自分のペースを守る方で、それを崩したくないという思いが強い気がしたんです。それでプレッシャーにならないように、すごーくゆるめに、ふわっとした感じで「久々に一緒にいかがですか?」みたいなDMをインスタで送ったんですが、既読なのにしばらく返信がなかった。もしかして嫌なのかとちょっと落ち込みました(笑)。しばらくして返信をいただけて、今回の企画が実現して本当によかったです。やはり吉田さんは自分のペースというものをすごく大事にしていらっしゃいますよね。

吉田 この10年くらいで、だいぶ自分のペースが見えてきて、やりたくないことをやると変なものが出来上がり、やりたいものを作るとすごくクオリティが上がるということがわかりました。できるだけ長く陶芸の仕事を続けていきたいので、そのためには仕事のストレスを減らし、やりたいことだけができる環境を整えたほうがいいと考えました。だからあまり注文を聞きすぎずにわがままを通すことにしたんです。わがままが許される仕上がりのものを持っていけばなんとかなるかなと。

迫村 それで今回も最初に、「最近の自分の思いを自由に表現していいですか?」と聞かれたんですね。結果的に脚付きの皿とかマグカップなど新作が納品されて良い驚きがありました。

吉田 僕はあまり場によって作るものを変えることはしないのですが、今回は久しぶりに場所をイメージしながら作りました、品があるけれど自由、国籍がわからない、でも居心地がいい場所。そこに僕の器を置いたら……と想像したら、国籍不明な感じの脚付きのお皿などが生まれました。それが、僕がBIOTOPに対して抱いているイメージなのかもしれないですね。

迫村 個展の初日であっというまに新作は旅立ってしまいましたが、男性のファンも多いし、うちのスタッフたちもお客様と同じ目線で欲しがっていてとても新鮮です。またしばらくしたら、ふわっーとしたゆるいDMでオファーさせていただくかもしれないので、そのときは返信よろしくお願いします。

photo/DAISUKE TSUNODA composition/AYUMI MACHIDA

吉田直嗣
Naotsugu Yoshida

陶芸家。1976年静岡県生まれ。東京造形大学卒業後、陶芸家・黒田泰蔵氏に師事。2003年富士山麓に築窯し、黒と白の陶磁器を作っている。

Interview with

BIOTOP ディレクター
迫村 岳

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